◎神様中心の内容。神様がご主人なら自分は番頭という玉水の教導はすばらしかった。これは、大船に乗った信心ということになる。そこには、我がない。おかげを頂くために修行する、というのでは、おかげを頂いても自分が修行したから、という我があるために、結局神を商法に使うたも同然となり、後のおかげにつながらない。修行は、神様の間違いないことを信じさせてもらうために修行するということでなからねば。
%1玉水初代の教導。
%2修行の目的について
%3泊まりこんで御祈念するという人に対して。
%4体調をくずされた親先生の、その後の取り組み。
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昭和四十三年七月二十二日 朝の御理解


X御理解九十五節「世には神を売って食ふ者が多いが、此方は銭金では拝まぬ、神を商法にしてはならぬぞ」


 %Uこれは取次の者に対する御理解のように思いますね、自分の生活手段の為に神様を拝んでおるとゆうような事はしない、銭金では拝まん、人が助かりさえすればいいのだとゆう風に頂きますね。今日はそうゆう意味ではない、お取次を願う者の側が、神を商法にしてはならんとゆう事を聞いて頂きたいと思うのです。

 信心を段々させて頂くようになって、お取り次ぎの働きの間違いなさ、天地の親神様の絶対性といったようなものが、段々わかってくる、お取次を頂いてから次の働きがどのようなものであるか、またそのお取次をして下さる金光大神の働きとゆうものを知ると同時に、そのおかげを下さる天地の親神様の絶対の働き、絶対の愛と力を持って私共におかげを下さる神様という事が信じれてくるように段々なってくる。

 %Vそこでどのような場合であっても、どのような事柄であってもお取次を頂いたら大船に乗ったような気持ち、私はそこまでおかげを頂かなければいけないと、大舟にのったような気持ちでおりますと、親先生にお取次頂いたらもう大丈夫ですよと、大舟にのったと同じ事と言え、また自分も思えるだけの信心を頂かなければいけん。そこで、これは私の信心体験から申しましても、これが絶対と言えれる事はね、どのような難儀な事が起きてきても突発的な事が起きてきても、その事は痛い事であったり苦しい事であったり、悲しい事であってもですね、その受け方ひとつでおかげが受けられるとゆう事。

 信心しておっても痛い事もありゃぁ苦しい事もある、悲しい事すらも絶対あるのだ。そうゆう場合ですね、そうゆう事の受け方ひとつでです、こうゆう大変悲しい事があった、大変こうゆうな痛い苦しい思いをする事があったけれども、それをこう受けさして頂いたら、こう受けていったら、そのおかげでこのようなおかげが受けられたとゆう事、もうこれはね、私が絶対なものと思うておる。

 ところがやはりみんなが、痛い事やら苦しい事やら又は悲しい事やらには、やはり出来るだけ会いたくないのである。出来るだけ痛い思いをせんですむように、苦しい思いをせんですむように、又は特にそうゆう悲しい事等には出来るならば出会わんですむようにとゆう事がみんなの願い、人間誰しもの願いである。いわゆる、大難は小難、小難は無難におまつりかえを頂いて、やはり無難のおかげを頂きたいとゆうのが人の情である。

 みなさんも願わなね、まぁ休まれる時でも第一火難盗難又は水難、最近の事であれば交通安全、そうゆうような事の中から御守護を受けたいと思っているのはみんな人の常である。また、信心とはそうゆう事のおかげを受けられる為にしよるとゆうておる人すらがある。又実際そうゆうおかげも受けられる。家の中に一人がおかげを頂いていきゃぁ、その家一軒が助かると云う。一軒が、家族中の者が信心しよりゃぁ町内その村内が助かると云われておる。五十人のバスの内本当の信心を頂いておる者が一人おりゃぁ、その五十人のバスに乗っておる者全体が助かると云われるぐらいでありまた事実そうである。

 %Vそこで私共がどのような場合に直面しましてもですね、それを真実神愛として受けさせて頂く限り、その後のおかげとゆうのはめざましい。めざましいとゆうよりもすさまじい、天地の働きがそこに現れるとゆう事実をね、私はここ十八年の間に、もうこれは絶対そうである事を体験して参りましたですね、ですからここのところをどうゆう事になってもいわゆるままよという心、「ままよとは死んでもままよのことぞ」とおっしゃるように、そうゆう一つの信心度胸とゆうかどんばらが、信心によって、やしなわれてきてまいりますとですね、これは有り難いですね。

 %Vけれどもこれは、どこまでも二段構えである。本当は例えばそうゆうような事にあわんで済むおかげが有り難いでしょうが、万が一どのような事になってもそれを神愛として受けさして頂けれる信心。だからこれは何処までも二段構え、だから一段目は難儀から、難儀な事が無難で済むようなおかげが頂きたい、もう叩かれたら叩かれたでどん腹が決まるけれども、叩かれんなら叩かれないで済むようなおかげが頂きたい。出来るならそんな悲しい思いはせんで済むようなおかげを頂きたいとゆうのがみんなの願いなのである。だからその事の為に信心しておるとゆう人すらがある。みんなそうです。

 %Vけれどもね、信心目的がその事だけであれば、これは、大変小さい信心になるのですよ。いわゆる天地金乃神の本質を知らないのです。天地金乃神とゆう神様はどうゆう神様なのか本質を知らない。「金光大神取次の道」とはどうゆう道なのかとゆう事を知らない信心。

 ですから金光教以外の信心は、その事の為だけの信心とゆうのが日本には多いのじゃないでしょうかね。難儀から逃れますように、もし難儀があるなら、それが大難なら小難、小難なら無難におかげ頂きますようにと悲しい事等はどうぞおこらんようにと、ゆうなら虫のよい願いである。どうぞ商売が繁盛致しますようにと、農作物はどうぞ豊作でありますように、また金光大神はそうもおっしゃってある。全ての事そうゆう事でも実意をもって願えとおっしゃるのですから、これは【】様が拝んでも同じような事ではないでしょうか、只実意を持って願えとおっしゃっておられるところが金光教的ですよね、やはり、願うからには実意をもっての願いでなけらなければいけない。

 %V今日私はそうゆうところのこれを二段構えというならば、お取次を頂いたら最後大船に乗ったような気持ちになれるという事。それが例えばいよいよの時には、それを神愛で受けるから大舟に乗ったような気持ちというのではなくてね、例え乗っとる船がひっくり返っても必ず助けて頂けれるというものではなくて、本当にその、ひっくり返らない、その船に乗っておれば大丈夫だという信心です。そうゆう信心をお互いが身につける為には金光教の信心を、本質的なものから分かる、それを自分のものにしていかなければ、そうゆうおかげになっていかないのですよね。

 それがいわゆる神を商法に使うといったような事ではおかげにならんのです。まるきり神様を災難よけの神様と思うとる。まるきり神様を病気直しのお医者さんがわりと思うとる。まるきり神様を集金人のごと思うとる。これはいうなら神を商法に使っているも同じなんですよ、そうゆう信心は。昨日でしたかね、いっておりますように、神を使う信心。神様を使うとる、神様を酷使しておる、どうぞ火難、盗難、まるきり神様を寝ずの番の事思うとる、私は今から寝ますから、寝らんでちゃんと泥棒入らん事見とって下さいよとゆうのと同じ事でしょうが。

 いわゆる災難よけの神様でもなければ、病気直しの神でもない、交通安全を守ってやるとゆう交通安全だけの神様でももちろんない、そうゆう頂き方の場合では、まだ神を商法に使っているのであり、神を使っておる信心だという事です。けれども神様はそうゆう事にでも使われたいと願っておられる、氏子実意を持ってどのような事でも、身の上安全、【】万端のごと、牛馬の事に至るまで、五穀豊穣はいうに更なり、牛馬の事に至るまで実意を持って願えと、こう金光大神はおっしゃっておる。実意をもってお取次願うてお願をせろという事なのだ。だからしかしそれだけであったら、大舟に乗ったような気持ちは開けてこんのです。

 %Vそこでですね、私は思う。いわゆる我があってはならないとゆう事です。私が信心しよる、私が修行しよる、私がこのおかげを頂く時には、こげんして一生懸命信心した、私がこげな信心さして頂いたと、ここに我が出てくるとおかげにならん、我が出てくる事は我で神様を使う事になり、我で神様を商法に使う事になるのですよ、どうでもこうでも神様集金を集めて下さいと言うて、私が一生懸命願うたけん神様が集めて下さったという事になる、私が毎日お願いばしよるけん、無事で過ごされよるとというような事ではですね。

 %1それで私は思われる事は、大阪の玉水教会の湯川先生の御流儀です。当時、今でも大した教会ですけれども、日本一の高徳の先生でおありになったと私は思うのですけれども、やはり日本一の御比礼を頂かれた。こっちの信心の御流儀というのはね、そうゆう我というものを取らせる教導が素晴らしかったと私は思う。私は改めて湯川先生は偉かったなぁと思うのです。

 %1%V皆さんもご承知のように大阪とゆう所は、商都と云われる位に商売人の町ですから殆どが商売人、もうそれこそ食うか食われるかといったくらいにしのぎを削っておる商人達がひしめきあっておる町なんです。そうゆう所にあってですね、商人の良くない意味あいにおいての根性といったようなものを、スーッと抜いてしもうておられるような感じがしますね、いわゆる私が、という我を抜いておられますよ、いうなら骨ぬきにしておられる。

 %1%Vそれはどうゆう事かというと、例えてゆうなら、ここに中村さんとゆう履物屋さんがあるとする、中村喜久代さんという履き物屋さんがあるとする。「いついつはいくらいくらの支払がありますから、どうぞよろしくお願い致します」と、「今の所ではソロバンが立ちません」と、「どうにもいきません、どうぞよろしくお願いします」とこうゆう訳なんです。それを湯川先生が「よっしゃ」とゆうて引き受けて下さる。「そのかわりに中村商店は、もう中村商店ではないぞ」とおっしゃる。「お前の所はもう神様が御主人じゃ」と。この辺ですよね、湯川先生の信心の素晴らしさはその辺です。

 %1%V「もう中村商店、中村履物店は中村喜久代の店じゃないぞ」と、「お前はその中村商店に使われておる、ゆうならば番頭なんだ、いわゆる主人が番頭なら家内はそこの女中頭、だから結局番頭としての務めを一生懸命務めろ」と、「借金払いの事も御主人様に任せておけ」と、「中村商店の大将はもう中村喜久代じゃないぞ」と、「天地金乃神様が今日から御主人ぞ」と、御前は女中だ、番頭だ、だから神様がおっしゃるとうりにただしとけばいい。「どこどこに集金にいけ」といわれる、「はい」それは集金がよってもよらなくても、「参りましたけれどもお金が集まりませんでした」と神様に報告さえしとけばいい。

 %1%V家内は女中だから、自分ところのかってもとに万端の上に心を込めて、どうゆうような女中さんにならして頂いたら御主人に気にいられるかという事を一生懸命考える、自分が奥様のごたる気持ちじゃできん。自分の主人がちゃんと見ござる。そしてその女中の働きかたによっては、給料も上げて下さるだろう、いや首になるかも知れん、こげな粗末な人間は、女中はいらんといわざるかもしれん、だからおかげを頂くために、この首をつながる為には、忠実に神様が、いや御主人様がちゃんと見てござると思うて、家大事に一生懸命働け、主人はその店大事にまめに、御主人に忠実であれ。もうお前の借金じゃないからもうお前は心配するな、そうゆうような教導ですよね。

 %1%Vそこにはね、我がないです、そうでしょうが。えらい簡単なようですけれどもね、例えばそうゆうあり方になればおかげが頂けれるとゆう真理とでも申しましょうかね、大変な事だと私は思う。なる程、それならおかげは受けられるだろうと私は思います。そうゆう状態になった時に初めてです、御主人が、いわゆる神様が御主人なのだからという、その神様を知っとれば知っておる程、大船に乗った気持ちでおれる訳です。番頭としての務めの忠実に出来てない所も本気で詫びる気持ちも出てくる。又忠実にならねばならないとゆう事も本気で考えるようになってくる。

 %1%Vこうゆう生き方はもう神様を使うのじゃないです、そうでしょうが、神様が中心で働くのではなくて、自分が先に立って働きござるのであって、自分がそのかわりに使われとるのでしょうが。神様から女中として、神様から番頭として、店員として使われとうとでしょうが。

 %1%V私はここの所を初めて開眼したような気がするのです。湯川先生のそうゆうところは、素晴らしいと私は思うのです。神様を使うのではない神様から使われる。

 %2そこでです、私がこうゆう信心さしてもろうた、こうゆう修行さしてもろうた、朝は四時から参ってこうした、昼はこうゆう修行に参加さしてもろうた、そしてこげなおかげを頂いたとゆう事になってこない。こうゆう信心をしたからおかげを頂いたのではない、そうゆう信心はですね、どうゆう事になるかというと、、その御主人である親神様の働きをいよいよわからしてもらい、信じさせてもらう為の修行であるとゆう事になる。

 %2%Vなら、これを私にいたしましょう。私が取次をしてやった、私が取次をしたら間違いない、私が取次をしてやったんだからおかげを頂いたんだとゆう事ではない。私は一生懸命こうして修行もする、修行もするけれども、それはその御主人であるところの天地の親神様の働きをです、いよいよ間違いのないものであると分からして頂く為に修行する。その天地の親神様のいよいよ間違いのない働きをです、間違いなく取り次がれるだけの信心ができておるか、そうゆう修行が出来ておるかの事の為に修行する。

 皆さんは信心したからおかげを頂いたのではない、皆さんは、そうゆう風な神様である、御主人であるとゆう事を信じさせてもらう為に、お参りしてきよるのであり、修行させて頂きよるのであるとゆうところがです、ここのところが間違って私が信心したからこげなおかげを頂いたとゆう事になったらですね、これは、よし、おかげを頂いてもそれじゃ本当のおかげにならん、後が。私が、私の力でとゆう事になってきて、結局は、それは神を使う、私が強引に神様を使ったからおかげを頂いたと、私が強引に神様をお医者さんがわりにした私が強引に神様を病気直しの神様にした、仕立ててしまって、私はじたんだふむように修行さしてもらって、災難よけの神様にしたようなものでしょうが。

 動きなさるのは神様、神様が中心、神様が御主人。只神様の下で私が只、こまめに一生懸命神様に喜んで頂くように、番頭としてのどうゆう働きは、どうなからなければいけないかという思いで、神様の前に、主人の前に忠実に働いた一店員であるとして、一女中さんとして、一生懸命働かして頂きよりましたら、段々認められるようになり、給料も段々沢山下さるようになり、とゆう事になってくるんです。

 その反対に神様を集金係のような考え方すると、もうお金のほうがやぁやぁいわんでよかごとなってくる。もう神様は集金係はしてもらわんでよか、自分が集金に行きゃよか、銀行にいきゃ金が取れるごとなってくる、そうすると神様に用がなくなってくるです、そうゆう生き方では。そうでしょうが、世の多くの人はみんなそれなんです。

 お金が沢山あって、銀行に預金がたくさんあるという人は、金の事は神様にお願いせんでよか、銀行に行きゃ金は自分が取ってくる。これではもう、所謂お道の天地金乃神の神様の本質を知らないと云わなければならない。それが切って切れるような神様でもなからなければそうゆう私共と神様との間というのは、そうゆう続柄ではない、どこ迄も神様あっての私、私共あっての神様であり、あいよかけよの働き合いの中からしか、人間の幸せは生まれてこない、とゆうのがお道の信心なんだから。

 %2%V神様を只利用する、只お願いをするとゆうのではなくて、その神様を信じれる、そのお取次をして下さる金光大神、又はお取次をして下さるその先生の、信心を信じさして、信ずる力を頂く為に、皆さん一生懸命信心修行しておるとゆう事になってまいりますとね、先生にお願いさして頂いとるけん大丈夫とゆう事になってくるのです、いわゆる大船に乗った様な気持ちで日常生活出来る。そうゆう日々が送られる、おかげを頂く為には、何処までも神様を御中心、神様が御主人、私は神を使うというこのひとつの見解がですね、今日のこの場合新しい解釈だと思うのですよね、皆さんに聞いて頂きたい。

 %V確かに神様が御主人、私は番頭さん、家内は女中さんというような頂き方は、これはどんなに神様にお願いをしておってもです、それは神様を使う事にはならんのですよ、何処までも自分の立場なのだ、神様が働いて下さる一生懸命、自分のほうから率先して働いて下さる、神様がさぁ右に行け左に行けとおっしゃるから、神様の前に忠実に御主人の前に忠実に働いている一店員にすぎない、そこに使われておるという事。だからどのような難儀な心配な事があっても、「御主人様、こうこうこうゆう事になりました」と、「その為には私店員の、私番頭の、支配人私の、やり方が悪くてこうゆう事になりました」とおわびはしなければいけんですね、御主人ですから。けれどもそれはそれとして、詫びれば許してやりたいのが御主人の心なのですから、素直に詫びさして頂いたら、それからそれを挽回する為には、こうあれ、そうあれと又新たに采配をふって頂くとゆうようなおかげを頂かなければいけない。

 %Vこうゆう事になると神を商法に使うのじゃないでしょう、神様が社長さんであり、神様が御主人であるという事、自分が主人であると云う場合はね、それがのさばっておるから、おかげが手間取るです。そして私が今困っておりますけん神様よろしくお願いしますというてから神様を雇った事になろうごた感じになる。

 %V私は湯川先生のお取次の、こうゆうこの流儀でお取次をなさって、あれだけ沢山の人が助かったと云うのは、こうゆう素晴らしい事であったから、いわゆる神を使うのではなくて、神様から使われるという事をですね、もう何というか、そうゆう平易なですね説明とゆうか御理解によって、そうゆう自分の我とゆうものを抜いて下さるような感じがする。だから例えば「お金がたらんからと云うてソロバンばっかり握るな、帳面ばっかりながめとったっちゃ、もう任せとかな」とゆうような例えばそれこそ大胆な商売も出来る分けなんです。それは大船に乗ったような気持ちでおるから出来る訳なんです。

 %V今日私はお互い大船に乗ったような気持ちで日々の生活が出来るようになる、ここの所が分かるところが第一段、次には二段階においての信心を始めなきゃと申しました。どのような事になってもそれはお互いが悲しいことやら苦しいこと痛いことやらかゆいことがないように信心しておるというような考えかた、けれどもそうゆう信心でありましても、願いながらもやはり悲しい事になった場合でも、日頃信心の度胸とゆうものをつくっておくとです、その受け方がそれを神愛として受けられる。受けられればこれはもう絶対その事のおかげで大きなおかげがそこから開けてくる事は絶対。これは私が確信しておる事、私が体験させて頂いておる事。

 けれどもやはり大難もいらん小難もいらん、無難、息災の中におかげを頂きたい、それが私共人間の常である、それにはひとつの神様に対する所の主観、神を使うのではない、神に使われるという信心、それは中村商店はあなたのお店とゆう頂き方、それは例えば、どれだけ中村商店に借金がありましても、それはもうあなたのお店、神様が借金持って下さる、それで私が忠実に、そこの店員さんとして女中さんとして一生懸命働くだけなのだ、しかもこうゆう偉大な神様が御主人であれば、大船に乗った気持ちでそうゆう中にあってですら出来るおかげが受けられる。大船に乗った気持ちでとゆうふうなことを申しますね、大船に乗ったような気持ちで、おかげいただかなければなりません。

 %3夕べもあるかたが、ある難儀な問題をひっさげての御信心ですから、夕べも明日はもう瀬戸際、それで今晩泊まりこんでから御祈念をする、そうゆう生き方も悪い事はなかった、けれどもそうすると私がこうやって頑張ってからおかげを頂いた事になるのですよ、だから「そげなことではいかんとよ」と私は申しました。そげんもうちった楽になりなさい、こうやってきばっておるとかえってがたがた震えてから、落ち込まんじゃろとゆう時落ち込まんならん、それよりかもうちゃんと先生がお願いして下さるけんと思うてから今日は帰らして頂いた。おかげ頂きました。

 いうなら今日の御理解の前提というかね、場合によってはです、さぁ一晩中でも神様にすがって願いなさいとゆうような段階の時もありますよ、何処までも神様どうぞこうして下さいとゆうてから、神様をもう使う信心でしょうが、これはもう自分がいつもはりつめとかなければいかん、それよりかです、只そうゆう神様を頂いているその神様を信じさせてもらえる為に、その修行をするなら又別ですよ。おかげを頂く為に修行をしようのではいかん、そうゆう絶対の神様である事を信じさせて頂く為に、修行しておるというならばいいです。

 %4昨日私は不覚にも、あんまりクーラーのききすぎたところで前の晩ですね、休ませて頂いたものですから、あんまりそれこそ北海道と台湾が一緒になって頭がどうかなって一日ですね、お届け帳見てびっくりするです。こげん自分の字が乱れたのは、初めてです。とゆう事で私は十二時迄【】のような気持ちで過ごさしてもらいました。そして下がらして頂いたら途端に目が真っ黒なってから暗く、そのままじっとすわらにゃならんごとなった、横でこげん時動かしちゃならんけんで、このままじっとして、足はもう【】がままです。そして話をしょったら遠くのとこからしか聞こえなかったです。いうなら気が遠くなっていた。

 %4ですからとうとう一時の御祈念が出て来るのがご無礼になった、それで私、夜の御祈念も若先生が、仕えるからと言ってましたけれども、夜の御祈念には大分よくなっとったから、ほうてからでも出られると思って【】に出てまいりました。

 %4そして私が、四時の御祈念に賭ける訳です。私がご無礼の為にこうゆう事になって、もうそれは十二時迄の御用をさしてもろうたんじゃけれども、御用が出来なかったという事はね、何処にまちがいがあり狂いがあったに違いないから、それが四時の御祈念をさして頂きながら、自分の狂いを正さして頂こうとこう思わして頂いた。四時の御祈念を終わらせて頂いて、ここに座らせて頂いてもう一分一秒違わず四時半でした。おかげでこれは間違いなかった。いよいよ絶対なる神様をね、<私をとるに助かられる>という確信が大切。

 %2%4いわゆる神様を信じる力を、私は一生懸命修行しよるとですよ、みんなが助かることの為にですね、いうならば、私が助けるためじゃなくてからね、助けて下さるのは神様なのだ。神様が助けてくれる事を信じている力が、例えば一時の御祈念ちょっとご無礼した為に、それが希薄になった、遅くなった、もうこちらのほうのおかげにと思うから私は四時の御祈念に出てきてから、信心のいわゆる神様を信じる力というものが、そのために薄くなるような事があっちゃならんというのが、四時の御祈念になって、これならば大丈夫とゆう風に安心出来る。その事の為の修行じゃないとだめですよ、皆さんも、信心は。

 %2%V只一生懸命お願い、参ってくる信心というのは、絶対今日の御理解でいうなら神を使う信心です。だから一生懸命のこの修行もです、神様を絶対の方と信じさして頂く、日々のこの修行もお取次の働きというものをいよいよリアルに、いよいよ間違いない、このような微妙なものにあるという事を、分からして頂く為に、修行さして頂くという事だったらね、それにはやはり神様は御主人、私は一使用人であるという事の、生き方にならして頂かなければならん、そこにはね、いわゆる楽な、大船にのったような気持ちの信心が出来る。

 昨日の一時の御祈念の後の御理解が、私が寝ながら頂いとりましたから、【】さんに昨日書いていただいとりますから、ひかえておらんと、今日消すことになりますからね、どうぞ頂いて帰ってもらいますようにお願い致します、どうぞ大船に乗ったような信心、神を商法に使うのではなく、神様を泥棒の番にする信心ではない、神様を災難よけの神様にしてはならん、神様を医者がわりにする信心からです、神様が中心、此の家は守って下さい。神様を【】のごたじゃいけん、神様を御中心、だから例えここはあきっぱなしであっても、神様が見ておって下さると言う事になるのでしょうが、そうゆう信心をひとつ体得しなければ、それには金光教の信心の本質から分かっていかなければいけないですね。
どうぞ